通備拳

 広大な中国大陸は数多くの門派の武術があります。大きく分けて北派(少林拳、蟷螂拳、八極拳等)、南派(洪家拳、詠春拳等)、内家拳(太極拳、形意拳等)などといった区分ができます。

 中国武術は悠久の中国の歴史の中で多くの武術家の実戦経験と研究の成果によって多くの門派ができそれぞれの風格ができ発展していった。

 今の特に日本で有名なのは健康のための太極拳や表演用の武術である。これは中国の国家体育委員会が武術を普及するためにスポーツとして編成したものであり、老若男女を問わずスポーツまたは健康法として広く採用されている。

 一方、昔のままの体系が残っている武術は今でも保守的な考えの武術家がおられ、一般公開されることが未だにあまり多くない。しかし、最近になって日本でも個人的に中国で何年か伝統的な武術を学んできて教室で教えられている先生方も徐々に増えつつある。

 多くの門派がある中国武術の中で通備門の武術は実戦武術の最高峰と言われてきながら、今まで中国の西北地方である甘粛省、陜西省などの一部の地域のみであり、その実戦性の強さは知られても本当の実態は明らかにされていなかった。

 馬賢達老師は20世紀の中頃、実際の戦いで不敗神話を作り、その強さを全中国に広く知らしめた武術家である。

 特に1952年天津において全国各地から武術名家が出場し、直接打撃制という現在では考えられないルール(あまりにも危険で多くの負傷者を出した結果となったのでこの大会以降に大幅なルール改正されたほどである)であった散打大会で門派のプライドを賭け覇を競った中で当時若干19歳でしかも大学生の身であった馬賢達老師が優勝を果たしたのは前代未聞といっていいだろう。(実際の打ち合いをすれば、中国で一番強いと多くの向こうの武術家が言われていた。このことは『秘伝』2004年12月号〔BABジャパン〕に松田隆智氏も書かれている)。

 それより前に、馬老師の叔父である馬英図は1928年南京中央国術館が設立の際に政府が全国から武術家を招いて挙行した初めての全国規模の武術大会で「散打搏撃部門」、「撃剣部門」、「長兵部門(槍)」において優勝し全国の武術家にその実力を知らしめ、その後多くの武術名家が出入りした南京中央国術館の中で実力NO1と見なされるようになった。

 馬賢達老師や馬英図が参加した散打大会または撃剣などといった試合は、今のものとは違い、真剣勝負に近い非常に危険なものであった(実際、多くの負傷者が出た記録が正式に残っている)。

 中国武術の世界では、よく実戦武術家云々といった声がよく聞かれるが、神秘的な力を持っていた、という伝説については「白髪三千丈」というケースが多い。また、住んでいた地域の中或いはその近辺では強かった、と場合がほとんどだ。100年以上前の中国は人口の密度がかなり低く、また、交通の手段も限られていた。最強といわれた武術家とはいっても例えば北方の武術家だと実際の活動範囲は北京または天津付近まで、そういったケースがほとんどだと聞く。また武術家は自分の門派の面子を守るために今現在の格闘家みたいにすすんで他派と試合したり交流したりすることはほとんどなかったのが実情である。

 その中で馬賢達老師と馬英図の全国規模の大会で勝ち続け実力を証明したのはセンセーショナルなことだといっていいだろう。

 全国規模の大会を二冠も制し、実際に実力を証明してきた馬家の武術とはどのような武術なのかこのサイトで紹介してみよう。

 通備拳とは近年の滄州出身の著名武術家 馬鳳図によって編成された門派であり中国北派で実戦性の高い拳法として知られている劈掛拳、八極拳、翻子拳を主とし、さらに戳脚、蟷螂九手、太祖八斬などを加えて編成されている。

 ただこれらの種類の拳法が集められているのではなく馬鳳図の生涯をかけての研究工夫により、各種の拳法を元来の技法を残しながら通備勁道を取り入れて統合させたものであって、元々別々で伝承され、風格や技法がまったく別だった各種拳法を共通の原理により貫いてよりよく完成している。

 よってそれらを総称して「通備拳」といい、また「馬家拳」とも言われているが、正式名称は「馬氏通備武芸」という。

 従って前述の拳法の名称の頭に「通備」の名を加えることができる。例えば馬家が伝えている八極拳は「通備八極」であり、翻子拳を「通備翻子」などといった具合で実際合致させて称している。

 「通備」の釈義には2つあり、「理象会通」「体用具備」である。「理」とは拳理、拳論をさし、「象」とは外在している拳勢や実際の技術をさす。この2つは一致し会得して通じてなくてはならない、これが「会」、「通」である。「体」とは強健な体をさし、「用」は技撃、実戦、技能のことである。これら2つを備えていなければならない、これが「具」、「備」である。「通」と「備」が組み合わさったものが通備武芸観である。

 通備拳の核心になっているのが黄林彪から馬鳳図へと伝承された劈掛拳である。劈掛拳は河北省滄州地区を中心に伝承があった拳法であり、通臂拳や通背拳と同様に「背筋や肩関節をゆるめて腕を遠くに伸ばす打法(放長撃遠)」を重要にしている上に技法面においても共通性があり、清朝末期より民国時代初期においては劈掛拳は通背や通臂拳に属する拳法とされ「通臂劈掛拳」と以前は呼ばれていた。通臂拳と劈掛拳の技術内容は大同小異であり「臂」と「背」は文字が異なるが中国語の発音は似ているため、また「備」という文字こそ一切のものを備えるということであり、「通神達化、備万貫一」(神に通じ、化境に達し、万を備えて一つに貫く)これこそ全てに勝る特徴という考えにより「備」へと変わり「通備劈掛拳」と改名したことにより混乱を避けている。

 通備は核心となっている劈掛拳の「轆轤反址勁」を以て構成の主要となっている八極拳や翻子拳に採用し、発勁や用勁を行うための「呑吐開合」と身体の起伏やねじりなどの身法を用いることによって各拳が元来有していた技術の特徴や発勁面においてもさらに増長させている。

 劈掛拳の発勁は「開合」によって行い、また同時に呼吸や身法による「呑吐」の力も使用する。この二つの勁を一つに合わせることが劈掛拳をやる場合のポイントである。馬家の劈掛は「開合」と「呑吐」それに加えて身体の起伏とねじりを用いる。

 は始めからできるだけ遠くへ打つこと、力を集中することを主にしているのに対し、劈掛の「開合」は腰椎を中心にして頸椎から尾てい骨までの脊椎を弓のようにしてしならせ、矢を放つように「呑吐」を行うのである。劈掛の特徴を要約すると「大開大合、猛起硬落、轆轤反址、如珠走盤(体を開いたり縮めたりする度合いが大きく、猛然と伸び上がり、すさまじい勢いで落下する。井戸のつるべが跳ね上がるように勢いよく、丸いお盆の中で玉が回り続けるように途切れることなく技が連続する。)」ということになる。

 劈掛拳の継承は起源は明らかになっていないが、判明されているのは、「親李学派」の思想を説いた潘文学からであり、潘文学から李雲標⇒黄林彪⇒馬鳳図へと受け継がれた。また二十四通臂拳の劉玉春は黄林彪や馬鳳図と交流して劈掛を習得し、弟子の郭常生に伝えた。 郭は馬英図の推挙により中央国術館で指導したことがあり、その時二人は互いに交流してそれぞれの長所を吸収させた。 馬鳳図は西北へ移住したため、現在滄州における劈掛拳の伝承は主として郭常生の伝えたものであり、息子の郭瑞祥へと受け継がれている。その他に塩山県には左宝梅が伝えたと云われるものがあり、この一部は現在孟村に伝わっている。また東北の吉林省長春の地域に黄林彪から学んだ李書文の系統のものが伝承されている。よって近年になって滄州以外の地域でも練習されるようになったが、各伝承者の考えによってか、それぞれの劈掛拳の技法や趣きが違ってきている。通臂を練習している者は通臂化しており、八極拳を練習している者は八極化している。李雲標⇒黄林彪へと受け継がれた本来の劈掛拳は西北の地で馬家によって受け継がれている。

 劈掛拳は一般に遠攻長打の拳法として知られている。(実際は接近戦の技法も優れたものがある)拳より掌を使用することが多いので「劈掛掌」と呼ばれることもある。劈掛の特徴は「蛇身鷹翅」であり、手を伸びやかに用い、身体を柔軟に前後・左右に揺動させることである。この身法によって轆轤反址勁の連続的な勁が生じて技を使って戦う。これらの技法のほかに曲線的な歩法もあり、手法や歩法が途切れることなく連続的に行われるため隙が生じない。

 また近年に到って、八極拳は劈掛拳を兼ね合せ練習されるようになった。

 八極拳は元々河北省滄州地方に伝えられており、歴史において多くの説があって確証を得ていないが現時点で明らかになっているのは河北省滄州地方の孟村で回族の呉鐘によって伝えられたということである。

 その後、主に孟村の呉家に伝わっていた八極拳が羅瞳の漢族にも伝わったことにより漢族の間でも行われるようになった。

 八極拳は「崩撼突撃」に集約されている特徴があり、火薬が爆発するがごとくの激烈な発勁を有する拳法である。「崩勁」は短距離から一瞬のうちに行う発勁であり、「撼勁」は全身を撼動させて打ち出し、「突勁」は突発的で浸透力のある発勁、「撃勁」は直にあるいは横に打ち出す勁である。また「山をも崩し、山を撼す突然の撃法」とも示されている。実戦上においての特徴は「挨、戳、斉、靠」と表現され、相手に素早く接近しぴったりくっついて攻めていくのである。つまり八極拳は接近戦を得意としていて、単に拳や掌で敵を打つだけでなく肘打ちや体当たりを多く用いる一打必倒の拳法である。

 馬家に伝わる八極拳は孟村(回族)のものと羅瞳(漢族)のもの、この二派を合わせたものである。馬鳳図は母方の祖父である呉家から八極拳を受け継ぎ、また弟・馬英図を羅瞳へ差し向けて張家より八極拳を学ばせた。よって馬家の八極拳は回族のものと漢族のものの互いの長所を組み合わせて伝えられている。さらに劈掛拳の勁道を取り入れたことにより発勁がより強大となった。遠攻長打を得意とする劈掛拳が加わったことによって接近戦が得意であった八極拳が長短どちらの距離からでも自由に戦えることになり、また劈掛の動きである曲線の動きや轆轤反址勁が加わり、戦闘方法がより連続的で変化多彩に進化している。これにより「八極に劈掛を加えたら神も鬼に恐れる」という言葉さえ生まれた。

 翻子拳は明代の将軍戚継光が著した「紀效新書」の「拳経捷要篇」に当時の武術各家として「八閃番十二短」と記載されており、その中で「善之善者也(優れた拳法の中のさらに優れた拳法)」と記されており、明代にすでに伝承されていた古い拳法である。 その後東北地方で伝えられていたが、馬鳳図が東北へ赴いた際、現地の武術家と交換教授によって馬家にも伝わった。 

 翻子拳の特徴は「双拳密如雨、脆快一挂鞭(双拳の密なること雨の如し、脆快なること爆竹の如し)」であり、あたかも集中豪雨が降り続くように、爆竹が鳴り続くように一気呵成に攻撃をおこなうのである。 元々の翻子拳は短打に属す拳法であり、動作は密であり小であり緊縮しているものであったが、通備門に加えられた翻子拳は劈掛の勁道と撹靠劈重の技法が加わったため勁力がより増強された上に、短打に遠攻長打の技法が加わり、「長短自在」の打ち方ができる拳法となった。つまり各門派の優れた点を一つの勁にまとめ融合させ一体化するという意味である。 それにより東北沈陽一帯、西北地方では「翻子に劈掛を加えれば神仙でさえも恐れる」と言われるようになった。これは真に馬鳳図一代の生涯の武術研究工夫の成果である。それによって一九二八年、南京でおこなわれた史上初の全国規模の散打大会で、馬鳳図の弟・馬英図が出場し優勝を果たし、一九五二年、天津でおこなわれた全国規模の散打大会では二男の馬賢達が弱冠19歳の若さながらも優勝を果たした。馬家からの出場者が2人も全国規模の散打大会を制したことにより実際その実力を証明してきている。

↑ PAGE TOP