己の鍛錬として武術の修行を怠ることなく続けるためには、家族や友人を大切にしなければなりません。武術の修行を通して家族そして友人、周りの人たちを守れる勇気を持つことも大切です。いたずらに敵を求めない事が原則であるが、武術とは本来護身のためにできたものであるから、自分の大切な人たちを守るために必要ならば、普段練った技法を用いて戦うこともやむをえないこと。
師から授かった秘伝をただひたすら自分で練ればそれでいい、あとは知らないよといった感じで伝承者ぶって中国武術をやっている日本人が中にはいらっしゃるが、それはまだ知ったかぶりの域から抜け切れず、自分の世界に殻を閉じこもっているだけの未熟なことだと思います。こういった人間は日本に限ってだが、中国武術の出版関係と関わりがある人間に幾人か見られ、○○拳の高い境地に達したいだけだとか私が習った発勁は本物だ云々と言っておきながら、実際の行動が矛盾だらけなことが多く呆れてしまいます。
自己中心だけであって、家族や友人を守れる勇気がないのに、武術に打ち込んでも意味がないと思います。すっかりドライになっている今の日本では少し古臭い言い方かもしれませんが、このようなことが今の日本人が失ってきていることではないでしょうか。中国武術では拝師制度があって、拝師の儀式をおこなった弟子は師と親子の関係と同じような信頼関係となり、師と弟子との心のふれあい、そして相互信頼関係によって師から弟子へと真伝を授けていくわけである。武術を修行する者は家族や周りを守れる心、そして心のふれあいができる人間になるのが基本的なことではないでしょうか。
武術を使って闘うことはあくまで生死をかけた最後の手段であるから、争いごとを未然に防ぐために自分から敵を作ることはできるだけ避けないといけない。そのために日常の言動には細心の注意を要する。たとえば、武術の組手練習などはもちろんのこと、普段の日常においても、右で勝ったら、左では負けるというような紳士的な気配りが必要です。これは圧倒的な勝ちを収めることにより、相手に不快感を与えてしまい、争いの種となるからであり、しまいには我こそは負かしてやろうという挑戦者が次から次へと現れて無益な勝負にまきこまれることを避けるためである。相手にも花を持たせる余裕のある心を持つことも大切である。
自分の力を誇示したいがために、自ら敵を求めるような行為はよくありません。武術の腕を自慢したいがために相手を傷つける事で、たとえ体に残った傷跡がなくなったとしても心の傷がある限り、争いが繰り返される心配もありうります。馬賢達老師が我々に仰っておられるとおり「普段は女性のようにおとなしくしないといけない」まさにそのとおりです。馬賢達老師はこのように仰りながら武術を修めていることを周囲に明らかにする事もできるだけ慎むように教えておられています。馬賢達老師が大学へ通われていた時に住んでおられた当時の天津は武風盛んな土地であり、多くの実力のある武術家がひしめき合っていました。あの当時天津で武術を修めていることが知られると、いきなり立会いを申し込まれたり、相手を打ち倒して試合に勝つと待ち伏せされることもあったそうです。よって自分が武術を使って闘うことは再びわが身にふりかかるという覚悟をしておく必要があります。
通備門は中国武術最高峰と呼ばれている流派です。その武術を修行する者として、普段から恥ずかしくない言動をするように常に己を律して行かなくてはなりません。また練習にさいしても、お互いの技を誇示しあって怪我をしないように、己の練習相手の体を我が身の如く考えて尊重しあうことが大切です。よってこのような精神のもとで修行をおこなう師弟の関係は肉親と同じように親密な縁によって結ばれるわけであり、門弟同士は兄弟のようになります。よって中国武術での門弟同士の間では先輩を「師兄」と呼び、後輩を「師弟」と呼びます。従って、たとえ武術の上級者であってもこれらの教えに背いた者や武術を修めるのにふさわしくないと判断された者は、通備門で武術を修行を続けることは遠慮していただいています。いくら組手が得意だからといって「俺は強いから、組手の時バンバン本気で行くから怪我しないようにな」と強さを示したいような人はそういう人間こそ人間そのものが未熟なので、破門という形をとらせていただいています。これらの理由で通備門から離れざるを得なかった者も過去に何人か存在したのは事実です。
師範や先生は通備門の武術を正しく後世に伝えていくという使命があるわけなので、いくら才能があったとしても、本当に受け継ぐのにふさわしくないと思われる人物には全伝は授けられることは決してありません。正統な武術ならどの武術でも同じだと思いますが、全伝を授けるのは、人間として武術を極めるのにふさわしい人物でなければならないからです。よって武術を修得するのに決して男女差別はありません。その人の練習の積み重ねと人間性次第ではないでしょうか。