(1831〜1907)
河北省塩山県黄龍潭の人。清末期の時代に李雲標、肖和成と共に「燕南三侠」と称されていた。
(1831〜1907)
河北省塩山県黄龍潭の人。清末期の時代に李雲標、肖和成と共に「燕南三侠」と称されていた。
黄林彪は若い時に桃園門の拳術から学び、六合大槍、刀、剣などを得意としていた。その体格は頑健であり、武心があり、その武名は滄州、塩山、南皮、慶雲の一体に知られていた。
そして、若いながら広く知られていた黄の名声を当時通備門の継承者であった李雲標、肖和成は関心をもつこととなり、李雲標と肖和成は黄を潘文学からの伝承がある次代の通備門の継承者として望むこととなる。
しかし、当時の黄林彪は人との交流を閉ざしており、なかなか李たちの望むようにはいかない。
そこで、李雲標と肖和成の2人は策を練り、そして李雲標と黄林彪は試合をすることとなる。李の一撃の通備劈掛の技法により黄は打ち負かされることとなる。
それにより李雲標、肖和成の両師の武術に心服し、今まで学んだ武術を捨て、李雲標から劈掛拳を学び、「通備学説」を受け継ぎ通備門の継承人となった。
1866年師である李雲標に代わって北京緑営総合教師となる。
1868年李雲標が捻軍の役で亡くなったことにより、すっかり気落ちした肖和成は武術をおこなうことができず、そのことによって黄林彪が劈掛門の宗家となった。
しかし、この時代の中国国内は戦争などで乱れていた時期なので、黄林彪は弟子をとるのを控えた。
1899年6月塩山県昭忠祠において先師・李雲標を記念し挙行した「掛棍」の活動の際に、当時12歳の少年であった馬鳳図が表演した劈掛拳、青龍拳(いずれも孟村伝)そして六合大槍を黄林彪の目に留まることとなる。
この孟村の馬鳳図少年が動き中での見せた一打、一腿、歩法、それに特に少年の身でありながら、8尺以上の大きな槍を自在に操る功力とその素質に黄林彪は感心する。
馬少年が表演した後、黄林彪はすぐに馬少年を呼び寄せ、少年の家族とその師弟関係そして今までどんな拳を練ったかを尋ねた。それから馬少年の腰背中を注意深く触って筋骨を調べた。そして馬少年に単劈手を表演させ、馬少年が演じる単劈手は少年の動きではなく、その功力は大人をはるかに凌ぐものであった。それを見た黄は微笑みすぐに同門の于保麟、安廷相、肖公輔などに「今から門を開き馬鳳図を弟子とする」と宣言する。そして、馬鳳図を引き連れて「掛棍」の表演大会に集まった大勢の観衆の前に立ち大声で「この子が私自身が選んだ弟子である馬鳳図だ!」と叫んだ。
その観衆の中には馬鳳図の父と叔父の呉懋堂(呉鐘の末商、孟村八極拳伝人)そして多くの武術家たちがいた。
それから、同門の于保麟と安廷相の推薦もあって、あらためて黄林彪は今までの禁を破って馬鳳図を弟子とする。
その際、今まで馬鳳図の字であった「健翼」を「健翔」に変えさせ、その記念に黄林彪の師であった李雲標が六合大槍を練習していた時に使っていた大杆子と「拳経捷要篇」一冊を贈った。
その後数年間馬鳳図に武芸を伝えるのに専念し、1907年に病死するまでに至った。
黄林彪は秀才(※旧中国の科挙の学位)であったが、後に官僚の出世を諦め、ただ拳医の2つの道に理想を追求した。歴史、諸子百家などの学問にも精通しており、その気概は学者のようであったと言われている。普段は「顔、李学派」の思想に心服しており、その思想により「通備」の道理を説き、深く理解していたので、人々から尊敬されていた。
長男の黄双亭、次男の黄僧亭は黄林彪の武術をよく受け継ぎ、特に黄双亭は槍に精通していて高手として知られていた。
他に黄林彪の弟子は’鉄の腕’と称された張玉山と李錦富などがいる。
晩年弟子の馬鳳図は黄林彪から伝授した劈掛拳をさらに発展し完成させたことで知られている。
黄林彪は全伝を受け継いだ馬鳳図に自分たちの門派の名を世に「通備」と公然と名乗るように、そして今まで滄州、塩山などの一帯の地域の人々に李雲標伝の劈掛は「通臂」であると誤解されていたので、「通臂劈掛拳」と称され続けていた。だが実際は内容がまったく異なる拳法である「通臂」との区別と違いをハッキリするようにと遺言を残した。
そして馬鳳図は師の黄の遺言を実践し、1910年天津で「中華武士会」を創立した際に肖和成の息子である肖公輔と話し合い、通備門の名を初めて世に公表した。
これ以降、通備拳の代表人物である馬鳳図、馬英図兄弟は通備拳の普及に努め、滄州、塩山一帯にしか伝わっていなかった通備拳を理論から技術体系まで一体化して発展していき現在まで伝わることとなった。
李雲標、肖和成、黄林彪より伝わった理論体系は馬鳳図の代によって完成したのである。
後に馬鳳図は西北の地に移住し、黄林彪から伝わった劈掛拳を西北の地に伝えた。
今では西北地方で代表的な拳法となっている。これは馬鳳図の成果である。
最近馬鳳図の四男である馬明達老師(馬賢達老師の弟)によって中国南部の広州にも伝えられ始めている。
日本では馬賢達老師の入室弟子である小林正典師範が主催している団体、馬賢達通備武術学院日本支部が日本各地で普及に努めている。小林師は弟子や生徒たちを指導しながら、その師である馬賢達老師の意志に従って、自身が師から学んだ通備武術を李雲標、肖和成、黄林彪、馬鳳図、李書文、馬英図たちといった功力が高い武術家が揃っていた清末期、民国時代の武術のレベルの水準まで現実的に体現するようにすすめており、師、馬賢達から受け継いだ先輩たちの通備のその精神を日本人に伝えようとされている。
また「神槍」で有名な李書文は元々黄四海に拝師して八極拳等を学んでいた。だが、李の師である黄四海は小柄の李書文(実際に160センチ前後の人だったらしい)を嫌い、それに基礎が足りないので、李は黄四海と張景星の推薦により、黄林彪にも拝師した。李書文は黄林彪について通備弾腿から学び、後に劈掛拳も学んだ。のちに李書文は苦練により、「神槍」と称されるようになった。
李書文は劈掛拳の十二大足堂子の中の一つである’招風手’を得意としており、李書文が劈掛拳の掌法を練習していると風が吹いていたという伝説もあるぐらいである。
李書文伝の八極拳の本が日本で何冊か出版されてるが、それらの本で劈掛拳の動きの中に’招風手’に似ている動きがよく見られる。参考にご覧頂きたい。
李書文は弟子である霍殿閣に八極拳の他に劈掛拳も伝えた。その伝承は今も中国東北地方と台湾にも伝えられている。しかし、この系統の劈掛拳は現代では八極拳の勁道や技術、風格へと変わっており動きが直線的である。これは批判するのではなく、彼らの研究によって発展したものと言っていいだろう。
黄林彪から伝えられた劈掛拳はその弟子または孫弟子によって全中国や海外に広く伝承されている。