多くの中国武術愛好家がまだ知っていなかったこと、勘違いしていたこと

武術を実戦に活かすには腿が重要である!

日本では中国武術を発勁だとか絶招だとか云々といったものだとまだ思っている人たちもいるようだが、どんな強力な発勁を身につけても、どんな優れた招法でも相手を倒せる優れた歩法がなければ、技として活かせずに、自分が放った技を相手に到達することもできず、結局は相手を打倒することができなくなってしまい、簡単に相手にやられる結果となるのは言うまでもない。それは正しい指導の下で段階を踏んだ訓練を重ねれば誰でも体得できるようになるわけである。

弱冠20歳で全国短兵格闘チャンピオンとなり、雷神のような強さと謳われた馬賢達老師が言う歩法の重要さとは?

短兵格闘試合において、私は八極拳の高手 王国安、通背大師 張武謳カ(北京の通背大師張策の弟)の高弟であるケ鴻藻、鴨形拳大師の李恩貴、「王剣客」と称されて恐れられていた王建奇、そして華中地区代表の魏大鴻、東北地区代表の孫徳興等と剣を交えていったが。彼らはみな短兵の腕は素晴らしく、民国時代におこなわれていた短兵の打法をやり、彼らが練習してきた各流派の中の伝統技術もあった。彼らは当時の私の年齢よりも上であり、各自自分の戦い方を熟知している彼らにはとても簡単に勝てる相手だとは思えなかった。彼らと戦って苦労したのは彼らはみな功力が高く、振り出した一撃がどれも重いものであり、一撃で相手を打ち倒せるほどのものであった。当時の短兵格闘試合に使用された短兵は硬くて重いものであった。私が大学で使った短兵は全て旧式の短兵であり、振って割りと軽かった。仮に相手から打たれてもあまり痛みを感じなかったが、この大会で使用した短兵は、特に彼らから繰り出す一撃は非常に強力であった。私の記憶では私が王国安、ケ鴻藻と戦った時、彼らは私に敗北したが、試合後、私の体も痣が残り疲労を感じたのであった。何故ならば彼らが繰り出した強力な攻撃は相手をたじろかせるほどであり、彼らの技法は刀法を主としていたのだ。当初私もこのような攻撃には対応しにくかったものだった。私の大学のクラスメートは彼らに簡単にやられていたのを思い出す。

練習や試合において相手を観察することによって、私は戦術を整えた。体力があり、私より十キロ以上も体重があって体格が良く、攻撃が狂猛で、振り下ろす剣が重い相手には、歩法を使って、相手が剣を出せる距離を与えない事と相手に技を出させない事が肝心である。

こうして私は優勝できたのであるが、あの当時、私は散手大会においても、戳脚高手の李学文と通背名師のケ鴻藻たちとの死闘の末、優勝できたのであったが。当時の天津の武術愛好家と試合に観戦に来ていた観衆たちは、私を「快手馬」と呼んでくれて称えてくれたものであった。実際この散手大会で私を「快手馬」と呼んでくれてたものだが、「快歩馬」の方がさらに私にとっては合っているのだがそう呼ばれなかったのだ。

短兵格闘においては、招法が当然重要であり、攻撃や防御は問わず、十分に正しい技法を備えておかなければいけないものであり、用法においても熟練しなければいけないことぐらいは、みんな理解できるものである。しかし、常に疎かになってしまうのは歩法である。私が青少年時代の頃、私の父 馬鳳図先生が私と師兄弟と練習していた時に、突然に「人々は手、眼、身法、歩と4つの法則があるのは知っているが、その4つの中でどれが必勝への鍵であろうか?」と私たちに聞いてきたが、ある師兄が「眼です」と答えたり、他の師兄は「身法です」と答えたのだが、父はこれらの回答を聞いた後、微笑みながら「よく覚えておきなさい。歩は根である、歩を使って招法をおこなうと、相手を打つことができ、また歩を使うと防守もより良くできる・・・」と言ったのであった。私はこの父が言ってくれたことを守り、私は実戦での試合において相手に不覚を取る事はなかった。

歩法の訓練とは

俊敏な霊活な歩法は、実戦の最中の進退において有利である。当然の如く科学的で厳格な訓練を経ないと、うまく行う事が出来ない。歩法の訓練は単調で辛い過程ではあるのだが、方法が正しくて、歩は理にかなうものになるには、訓練を進めていく上での鍵になるところである。歩法は競技の中で重要な作用を起こすものであり、訓練の最中においての運動員、選手、初心者までそれぞれのどの歩法でも正確な意味とその戦術に含まれている意味までを明確に理解しないといけないのだ。歩法を修得するには必ず正しい基礎がなければならず、攻防の戦法まで結びつかないといけない。技術と戦術については実戦の中で応用され訓練を実践していけば、練習においての不明な気持ちを起こすことはなくなる。

この問題の鍵は教える者の水準にもよる。もし教える者が奥義を理解をしていなく、解決問題の訓練手段が欠けているようなら、練習する者は如何にして解ることができるというのだ?歩法を用い応戦できることができ、相手より攻撃しにくくなるようになるには、以下の通りに従って歩法の訓練をおこなうべきである。

馬賢達訓練法についてだが、短兵格闘の実戦に必要な腕力、移動、距離感、反応能力、命中などといった様々なやり方があり、それについては専門の有効的な訓練方法であるのだ。

歩法の技能のマスターとレベルアップについては、身体能力によるものである。方法は正しく、一部の隙が無いように正確でなければ、レベルが向上する事ができないし、実用に使えるまでには到着できないのだ。短兵でも同じであり、どんなものであっても同じである。身体能力の向上を不断に向上していけば、技の向上にも繋がるのだ。歩法の技能、特に両腿、両足、そしてくるぶし関節は密接な関係である。当然、人体すべての動きが一体にならないといけないのであり、運動の中において、各系統、各器官はすべて一体とならないといけない。しかしこの問題は如何にして歩法の機敏な両腿のレベルアップするのに必要とする訓練を行い向上できるかであり、この訓練はその独特なものである。

両腿と両足、くるぶしの関節の力と速度の向上については、歩法が機敏になるための鍵である。如何にして向上できるか?どの手段を採ればよいのか?いくつかの有効的な方法がある。こういった体力と身体能力が向上する訓練は招法と切り離してはいけない。招法と切り離した訓練法は死んだものになるのだ。

馬 賢達

以上でお解かりいただけるとおり、通備門の武術は、実戦において重要な鍵とされる歩法をおこなう時に必要不可欠なポイントである「腿」の操作を重点的に行う、通備拳の核心になっている劈掛拳は、「活」の歩法を得意としている拳法である。素早く相手を打倒できる位置まで移動したり、相手の死角まで回り込んだりするのが特徴である。それには「活」でありしかも連続的でもある歩法、身法等が要求されるのだ。一般の拳法は打ち出した後の瞬間は、一瞬隙が生じるケースが多く、また円の動きをする拳法においても、攻撃する時は直線的に終わる事が多く、敵に乗ぜられる危険性をも含んでいるのだが、劈掛拳の歩法においては、こうした「轆轤反址勁」を加えた連続的な歩法や円の動きからなる歩法は、敵に乗じられることはない。だから北派の武術家の間では、「八極拳に劈掛拳を加えれば鬼神さえも恐れる」また「通臂拳に劈掛拳を加えれば神仙さえも恐れる」といった言い伝えがあるほどなのだ。劈掛拳の歩法は、搶歩、跨歩、卸歩、交錯歩・・・等離れた距離から接近できる歩法が数多くあるのだ。

こういった説明により、よく巷などで「背筋や肩関節をゆるめて腕を遠くに伸ばす打法(放長撃遠)」によって腕を振り回す拳法であるから、劈掛拳を長打の拳法であるといったかんじで勘違いして形容をする人がいるが、これはまだまったく劈掛そのものをあまり理解していない浅学者の考えであるのがお解かりいただけるだろう。馬賢達老師から提供された文章に書かれてあるように自分から離れて構えている相手を打倒するのに最も有効な武器とは、素早く相手を打倒できる位置まで移動できる優れた歩法なのである。そんな理由により、接近短打の剛拳である八極拳を学んでいた160cmも小柄な神槍 李書文は実戦上において不利と悟り、当時の劈掛拳の代表人物である黄林彪と師兄 馬鳳図から劈掛拳を学んだのは納得できる。

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