China's Highest Level Grandmaster

資料提供/馬賢達老師

監修/小林正典

訳/馬賢達通備武術学院日本支部

これは、2002年の年末に発売されたアメリカの中国武術専門雑誌「KUNGFU」の中の特集記事を日本語にまとめたものです。

中国著名武術家・馬賢達老師がその徒弟の小林正典先生に、ぜひ日本のみなさんに見てもらいたいとの強い希望により、このサイトに載せて頂くことになりました。

よって馬賢達老師を始め、その周りの方たち皆さんの許可はきちんと頂いてから掲載しています。

中身ですが、馬賢達老師の栄光やインタビューがまとめられています。アメリカで凄い反響があったそうです。

ただ今まで日本だけが何も反応がないのは、日本の武術メディアがいかに乏しいのか少し寂しい気もしますが・・・。

インタビューの中には、中国武術の核心部分や心得など盛りだくさんあります。

特に最近の中国武術の事情に関して痛烈な批判をされていて、切実に訴えられています。

これだけのすごい経歴があって、しかも省の武術協会や国家体育運動委員会などの重鎮でありながら、大きな貢献をしてこられた武術家ですので、一言一言が大変重みがあり、信憑性が高いです。

それだけでなく、これから武術はどうしたらいいのか、明確に答えてくれています。

日本で武術をやられている皆さんやこれから武術を志す人にはすごく貴重な意見になるかと思います。

本来ならこうして日本で紹介することはなかったのですが、馬賢達老師のご厚意により、こうして実現することができました。

ただ、馬賢達老師に関係ない文章は敢えて翻訳しませんでしたので、その点はご了承下さい。

日本の中国武術愛好家のみなさんのために資料提供してくださった馬賢達老師を始め、監修を務めてくれた小林正典先生、翻訳を務めてくれた竹田智毅氏にこの場を借りて御礼を申し上げます。

サイト管理者

掲載記事

4頁

〜編集者コーナー〜

私たちは中国のトップのグランドマスターである馬賢達老師に今月の表紙飾ってもらうことができてうれしく思っています。

私は1998年の旅行でこの特別な人に出会うという刺激的なことがありました。

そして今年、出版者であるGigi Ohはこのインタビューをするために西安で馬賢達老師にお会いすることができました。

歴史がある荒々しい西部の街がある西安は馬賢達老師にぴったりです。

秦王朝の中心であったとき、最初に中国を統一した場所で、強力な軍隊で有名な場所です。

私たちは遠い昔から中国の軍の精神の本質である兵馬傭の前でそれらの幻影をみました。

武術は王朝時代から未来に向けて形成されてきました。

馬賢達老師の武術は半世紀以上の歴史があり、そして彼は現在中国のトップグランドマスターの一人として認められ、9段を認定されています。

Gigiは馬賢達老師が中国および世界中で歴史や武術の未来を語るための膨大な知識をもっているとことがわかったりました。

西安での馬賢達老師へのインタビューをお届けします。

馬賢達老師は伝統武術の強い支持者です。だからさまざまな伝統的な話題と聞きたいことを結び付けました。

p.16

中国の武道を標準化するために、中華人民共和国は、有段システムと呼ばれるグランドマスターのための全国等級化方式を確立しました。

公式には1997に開始しており、9段階あります。

現在、ただ4人のグランドマスターがもっとも高い段(9段)として認識されています。

彼らの中でもっとも若いのは70歳で、中国の古い首都である西安にいる馬賢達老師です。

アメリカ人が認識している馬賢達老師の専門的報告のもっとも最近の証言は「Crouching Tiger, Hidden Dragon(日本語題名:グリーン・デスティニー)」で脇役を演じた彼の学生であるGao Xian(高西安)です。

しかし高は馬賢達老師の注目すべき功績の中の1つに過ぎません。

馬賢達老師の親しい学生の20人以上は、烏江陰の待望のタイトルあるいは国内大会でトップ3つの位置に繰り返し着いたスポーツ選手に授けられるタイトル「martial hero」を獲得しました。

馬賢達老師の息子、馬越と馬侖は国内チャンピオンでそのうえ有名な武術家です。

馬賢達老師は馬越が5歳で始めたとき、実際は彼はかなり良かったが、多く息子の彼を平手打ちをしたとコメントしています。

11歳のとき、馬越は西安市と陜西省のオールラウンド選手権で優勝しました。また有名な武術チャンピオンの趙長軍を打ち負かしました。

1983年、彼は翻子拳, 劈掛拳, 短兵、直剣で4つの金賞を勝ち取りました。

馬侖は17歳の時に全国散打選手権を制しました。現在彼は評判の良いコーチで国際的に認可された散打の審判員です。

そして中国の6人の散打王者のうち、二人もが馬侖のもとでトレーニングしたのです。

馬賢達老師はまた親類をこえて、前述のチャンピオン趙長軍をしばらくの間コーチし、また、ジェット・リーにも翻子拳を教えました。

p.17

〜martial roots〜

馬賢達老師は1932年、武術6世代のあるイスラム教の家族に生まれました。 9月11日以来、イスラム教はずっと紹介されていたので、今日のイスラム教には多くのタイプ(宗派)があることを簡単に忘れてしまいがちです。

中国のイスラム教徒、または回族は、世界でもっとも多い人口のうちのもっとも大きい少数派であり、ヒットラーがクリスチャンだったと同様にオサマ・ビン・ラディンもイスラム教徒なのです。

最初は河北から、馬賢達老師は彼の父の馬鳳図、そして叔父の馬英図から学びました。

両者は有名なグランドマスターでした。

馬鳳図は有名な馮玉祥将軍の下の大将でした。

馬英図は他に9段をもっている武術マスター張文廣を育てました。

馬賢達老師はたくさんの伝統的な武術(通備劈掛、開門八極、翻子拳、戳脚)を学びました。また西洋のボクシング、レスリング、フェンシングを研究しました。実際に馬賢達老師は西洋の格闘技を研究した最初の中国人だったのです。

1952年に、1942年中華人民共和国の設立後の最初の武術選手権が開催されました。

馬賢達老師は高い壇(リング)上でお互いに自由に戦う武術性を発揮した選手権で通臂拳の達人のケ鴻藻および戳脚の達人の李学文などを破り優勝しました。

また彼は短兵チャンピオンを勝ち取り、表演でも優勝しました。

彼は若干19歳で勝ち取ったのです。次の年、彼は華北短兵トーナメントで優勝しました。

このトーナメントは北京、天津、湖北、陜西、内モンゴルからの選手を含んでいました。馬賢達老師はこれらの選手権とトーナメントを全て勝ったのです。

馬賢達老師は武術に彼の人生をささげました。

大学卒業後、彼は武術、ボクシング、フェンシングを教えるために西安の大学の教師になりました。彼はそこで教授になり、30年間教えました。

馬賢達老師は、彼がほぼ10,000人の全国コーチおよびチャンピオンを含む中国人、中国人以外の学生を教えたという経歴があると推測します。

馬賢達老師は中国武術大辞典を含め、多くの本や記事を著し、彼は、長い経歴に関する多くの有名なタイトルを獲得しました。

彼が中国の武術のトップ10のうちの一人と認められたのは1995年でした。

1998年、馬賢達老師は9段保持者として認識されました。

2002年5月、馬賢達老師は70歳の誕生日を祝いました。

そしてKungfu編集者は彼に独占インタビューをすることができました。

馬賢達老師は中国武術の権威です。

私たちは英語での馬賢達老師の最初のインタビューができて非常に嬉しく思っています。

〜インタビュー〜

・中国武術の発展について

中国の共産主義の専門用語を使用すれば、私(馬賢達)は老兵といっていいでしょう。私の生涯は武術に専念しました。私はプロ武術家です。

1949年から武術は発展してきています。それ以降、確かに政府は多くの改良することに専念しました。しかしそれらの改良のうちのいくつかは、ある程度の欠点を持っています。ちょうど私たちの中国の格言「よい心を持っても、最良の報酬を得ない」のように、よい結果を見ません。

私はさらに、私たちの古代の文化遺産へある程度の損害があると言うことをができます。これは政府政策のある誤った指導によります。

例えば、1949年には、私たちは、「wa shang ding(控商鼎)」の政策を持っていました。

「古代の宝を掘り出す」がキャッチフレーズとして使用されました。

全体の政策が180度を変更した時、1955年までよかった。

だが、政府は行っていたことを無効にし、武術(特に武術の古く伝統的なよい部分)を下へ押し下げました。それは長い間続きました。

さらに、それらは古い伝統的なよいところではなく現代の武術(実際の能力および格闘)を促進しようとしてきました。

間違いなくこれ(実際の能力および格闘)は武術の中心部分でもあります。

しかしこれは完全な武術ではありません。

武術は、それを完成させるために長命、健康および心を必要とします。

しかし忘れてはいけないのは、武術の中心部分は打撃(実戦)であるということです。実際の格闘を戦う能力を持っていなければなりません。

確実にいえるのは、見せるだけのものではないということです。

p.18

翌1949年、私たちは、はなやかな武術が促進されてきました。そしてそれは武術に多くの損害をもたらしました。

打つか蹴れば、それだけで戦うことだといわれます。

本当は太極拳でさえ打つという側面を持っています。始めるや否や、打つために構えとり、相手を打って制するのです。

1949年以降、政府は武術を促進するために多くのお金を投資しました。共産党は現実に中華民国より多くのお金を使いました。中華民国時代、蒋介石は中央国術館を設立し、管理者として張之江を指名してました。重役会には林森のような有名な軍のリーダー、蒋介石、孫科などがいました。

彼らはそれを教育機関の下に置き、さらに国術教育大学として設立しました。すべての省は、その省の知事の指導のもとにその省に国術館(武術の練習場)を設立しました。

多くのよいところは張之江将軍の時に行われました。なぜなら武術と西洋の体育を合わせる試みがされたからです。

あまりにも旧式である武術は、冷兵器に打ち勝つことができません。したがって、体育とそれを組み合わせなければなりませんでした。

武術の特徴は攻撃、防御および格闘技術です。武術と体育は同じ質を持っています。それは文化です。現在、武術には西洋化されたシステムと組み合わされた3つの特徴があります。それは張之江が行ったとてもよいところです。さらに彼は、中国武術のいらないところのうちのいくつかを取り除きました。武術は全てが良いというわけではありませんでした。依然としていくつかの悪い部分はあったのです。

文化大革命が始まったとき、さらに悪くなりました。彼らは格闘技術という本質を引き抜きました。空の構造を残しただけでした。

それなのに、彼ら(政府)は、散手、短兵、長兵を促進しているとまだ言っています。もし武術は打つことであると言えば、犯罪者となりひどい屈辱をうけることになるでしょう。それでは私は武術家であるということができません。しかしずっと武術の中心部分を主張しています。それが中国武術の基礎だからです。

四人組が武術を始め、全てを堕落させたのです。その後、ケ小平が全職務回復し解放政策を行いました。多くの構造が解放され、武術も突然復活しました。それと同時に散打が流行し始めました。今こうして散打について話すことができます。さらに、武道家が現われました。普通の人々が武術の練習ができるようになりました。これは良いことです。しかし統治機関の政策は正しいわけではありません。従って、これは期待された結果ではありませんでした。

多くのアメリカの雑誌が中国の伝統的な武術を蝶のように非常にきれいなバレエと評したわけですが、しかし、これは彼らが外部しか見ることができなかったからです。彼らは攻撃や防御能力を見ることができませんでした。

p.17

〜martial roots〜

p.20

・国術について

中華民国時代、そして今日でさえの台湾では武術は国術と呼ばれています。それらは、そう呼んでいる理由があります。

私の父(馬鳳図)も武術を国術と呼んでいました。父は張之江と軍での兄弟でした。その当時は、中国の絵画は国画、言葉は国語、中国の薬は国医と呼ばれていました。当然中国の武術は国術と呼ばれていました。

清王朝、明王朝時代には武芸と呼ばれていました。奏王朝、漢王朝時代には手搏と呼ばれていました。さらに、唐、宋の時代はbian(卞)と呼ばれていました。馬卞は護衛のことでした。卞はまた人々を打つ武器のことでもありました。

1949年、中華民国と識別するために「武術」と呼ぶようになりました。海外の人々はKungfu(クンフー、カンフー)と呼んでいますが、私はそれが正しいとは思いません。なぜならばお茶を飲むことがKungfuというからです。

Kungfu(功夫)は自分の達成度という意味もあります。Kungfu(功夫)は時間、程度やレベルという意味もあります。最近の意味で使うのであれば達成レベルといえます。

・オリンピック武術について

中国では、散打がメディア注目および商用のために非常に人気があります。

これに反して表演は標準化されています。しかしそれはむしろダンス様で、より高いレベル国民トーナメントでさえ、多くの観客は集まりません。

誰も100人が同じことをするのを観るのは好きではありません。

もし表演がオリンピックに入ったとしても、必ずしも人々がそれを見たいと思っているとは限りません。すべてのオリンピック競技が観客がいるわけではありません。武術がオリンピックに入らない場合、すべての種類の中国武術が同時に栄えるでしょう。しかし武術がオリンピックに入り、政府がそれらの様な観客がすくない競技だけを押した場合、他の競技はすたれるでしょう。政府は中国の文化(12億人以上)全体を表現するために武術家だけを供給するでしょう。これは武術社会の一般的な意見なのです。

役人は結果がすべてなのです。彼らは何かを遂行したことを見せたいのです。彼らは功績を残したいだけなのです。

もし武術がスポーツに変更されてしまったら、本当に古代の中国の宝ではなくなってしまうでしょう。ムエタイはオリンピック種目ではありませんが、観客がいます。オリンピックのボクシングやバスケットボールはプロボクシングやプロバスケットボールと同じくらい観客がいるわけではありません。サッカーはたくさんの観客がいますが、全部までがオリンピック種目ではないのです。

p.25

・散打やフルコンタクトについて<>/span

飛んだりはねたりしたり、そのようなものを備えた現代の武侠本は実際の武術ではありません。

それらの映画は実際武術の発展を妨げているのです。なぜならそれらは誇張し過ぎているからです。武術はおとぎ話にはできないのです。その科学的な部分を出さなければなりません。

評論家たちはタイの選手に中国の散打が勝てないというコメントで武術を下に置くべきではありません。武術はもちろん実戦もありますが、訓練と熟練があるものなのです。

もしムエタイに勝てないのならば、それは練習方法が間違っているのです。最近はそれらのプロ武術家は大学で武術を4年間学んでいます。それだけでは短すぎて深く武術を学ぶことはできません。

例えば、1999年、わたしの息子がレフリーを務めたハワイでの試合(中国 vs. アメリカ(Art of War) )がありました。その試合はぜんぜん良くありませんでした。

私は散打のトップ選手の前に中国側を非難しました。散打の技術には武術が含まれておらず、まるで陰陽人のように見えたからです。

それはただの西洋式ボクシングであり、そのボクシング技術でさえ良くなかったのです。私は西洋のボクシングのエキスパートの元でボクシングのトレーニングをした最初の中国人であり、私はそのチャンピオンだったのです。

蹴りにおいても中国の蹴りのようには見えませんでした。

中国武術には独自のすばらしい蹴りがあります。しかし誰も使っていませんでした。それは西洋の口ひげを備えた従来の中国の服装を着用しているようなものです。中途半端です。中国散打と韓国、タイ、そして日本の武術との違いがわかっていないのです。

私は1952年に最初の散打のチャンピオンになりました。まだ19歳でした。

試合では3段階の階級がありました。(軽量級(〜53Kg)、中量級(54〜80Kg)、重量級(81Kg〜))私は中量級でした。

その時は少林、武当、形意、八卦など、すべてその特徴が出ていました。しかし現在の散打はその特長がわかっていません。特徴が無いのです。

ボクシングだって異なるスタイル(アメリカか英国)が分かります。

現在、だれも武術の基本を学ぶのに時間を使いません。問題は武術の基本が弱すぎるのです。誰もどの武術家であっても中国散打とは何か、武術とは何なのかと言うのを研究していないのです。

p.26

散打の将来は、もっと中国武術をそのなかに入れていくべきなのです。現実に過去100年以上において、物理的に戦うことができなかったので、中国武術は紙上で話されただけでした。現在、戦うことができます。それはすばらしいことです。

今、実際に武術に科学的研究法を使用するべきです。ある極端な秘密技術をがある場合、それを科学的に検査するべきであり、それがどのように作動するか知るべきです。紙や口頭では理解できません。紙や口頭は経験できません。武術の検証の場所はどこでしょうか?それはトーナメントや戦場なのです。

・短兵スパーリングについて

普通の人々が短兵スパーリングで競い始めた後、北京の統治機関はそれを規制することを決定しました。彼らは普通の人々がいいかげんに短兵スパーリングを行うと考えたからです。

政府はこのことを促進すべきです。だから私は短兵スパーリングの発展にずっと助言を行ってきました。ルールが確立されました。ルールの詳細は発展しつづけています。

現在、短兵スパーリングのために設計された標準の防具があります。すべては規制されています。私は商品登録される武器を設計しています。それは重さが約400グラム、長さが1mから1.1mの間で、使用者が男性か女性かによります。

p.28

1928年、張之江によって中央国術館は組織さられていました。彼のもと、私の父や叔父が短兵、長兵を発達させようとしていました。

さらに張之江はguoshu tiyu zhuanke xuexiao(国術体育専科学校)を設立しました。学生の質は非常に高かったです。

彼ら(張之江、馬鳳図、馬英図)は中国武術とスポーツをに組み合わせました。そして多くの有力な学生を育成しました。それはインドネシアとシンガポールにまで影響を及ぼしました。よって今日でさえ、フィリピンの人々はまだ国術を武術とは呼んでいません。彼らは長兵、短兵、散手も始めました。

アメリカでは、今のところ実際の短兵競技はありません。対練のみです。中国ではすでに短兵競技は始まっており、長兵競技もまもなく始まります。私は中国と日本で長兵の試合がすでにトーナメントで存在していると聞いています。

・徳について

ごく最近、私はある達人の90歳の誕生日のお祝いに行きました。そこでのスピーチで、私は彼の教えは成功していると祝いました。なぜなら彼の学生が彼を深く尊敬し、あのような盛大なパーティを主催したからです。彼は学生に先輩の敬い方、zunn shi xhong dao(尊師重道)を伝えていたに違いありません。

近頃は、社会倫理は腐敗しています。台湾を含めた中国人社会で問題になっています。年老いた普通の労働者(上記の達人の学生)は高い身分ではありませんが、良い学生がたくさんいます。そして彼の学生たちには多くの徳があります。彼らは先生から武術を学び、そして現在成功しています。だから彼らはそのような盛大なパーティを開催したのです。そのことが彼らの先生が成功した証明なのです。

p.33

・馬賢達老師の年表

1932:

河北省滄州で生まれる

1949:

中華人民共和国設立

1952:

解放後の最初の全国大会において、擂台(散手)で優勝。短兵、演武で優勝

1953:

華北での短兵選手権で優勝。無敗だった。

1954:

天津の河北師範大学体育部(Hubei Teacher's College)を卒業。

助手としてそこで働き、その後西安体育大学で教師になり30年間教えた。

1972:

この時代のもっとも有名な中国武術イベントである全国公開武術トーナメントの仲裁リーダーを務めた。

1973:

アメリカへの歴史的な武術代表団を指導。

しかし政治的により武術代表団の渡米許可が下りなかった。

1980:

ジェットリーのデビュー映画「少林寺」で武術指導とチーフ演出を務めた。

1983:

陜西省体育運動委員会の副理事(副主席)、 中国国技協会の理事、中国のスポーツ開発および研究の理事、中国武術協会の副会長(副主席)、陜西省武術協会の会長(主席)に任命される。

1985:

中国国技協会から「New Chinese Sports Pioneer」が授与される。

中国の武術家グループを日本の大阪に連れて行く。

1988:

中国国際武術祭で「Wushu Lifetime Contribution(武術生涯功労者)」と認められる。

1995:

中国武術協会と中国武術管理局から中国のトップ10武術名教授の一人と認められる。

1998:

中国武術の最高段位の9段として認められる。

p.34

・より高い武徳を確立するにはどうしたらよいか

江沢民は国の指導政策として徳を使わなければならないと言っていました。蒋介石も徳を促進していました。

当時四維八綱あり、礼、義、簾、恥は忠、孝、仁、愛、信、義、和、平によって生まれるといわれていました。それが徳です。

私たち中国人は皆、その徳についてのポスターをよく観ました。しかし現在は礼が何なのか、義が何なのか知ってさえいません。

どうやったら徳について話せるのでしょうか…まず最初に学ぶ必要があるのは孝です。それから忠です。最初に自分の両親を尊敬しなければなりません。最近は、多くの人が自分の両親の敬い方さえ知らないのです。自分の徳を見せられますか?徳は私たちが実際に強調しなければならないものです。

徳とは武徳も含まれます。武徳とは虚無でも、名前だけでもありません。武徳はもっていなければならないものです。武才を持つだけならできます。その能力を見せるだけなら誰でもできます。

三国時代の関羽、張飛、劉備は皆知っています。この三人は力を合わせても呂布を倒すことはできませんでした。関羽、張飛、劉備のまつられた寺を見つけることはできますが、呂布のありません。なぜでしょうか?呂布は強い戦士でしたが武徳がありませんでした。だからなのです。彼は養父を女性が原因で殺しました。呂布は3人の養父がいましたが、全員自分で殺しています。それがLuo Guanzpong(羅貫中)が書いた三国志で彼が(作者)呂布を不名誉にした理由です。だから徳と才は組み合わせれてなけれならないのです。

アメリカの武術社会を含む全ての武術社会にとっての質問です。より高い武徳を確立するにはどうしたらよいか。武徳をみがき、促進させるにはどうしたらよいか。もし武徳が強かったり、誰もがそれを追い求めるならば、社会全体がより高いレベルに全てが強くなるに違いありません。私はこの雑誌がそれを強調できると信じています。全ての武術愛好家に武徳が何であるかということを。

中国の武術専門雑誌《武林》2001年1月号の表紙にも飾られています。

(資料提供:馬賢達老師)

私の兄、馬賢達は今現在、教授職を退職されているが、当代の著名武術家(九段)であり、通備武術の重要伝人の一人である。

馬賢達は八極拳に対して非常に深い理解力と功力があり、その動きと実用は言うに及ばず、造詣が深い。また八極拳と六合大槍の指導及び訓練での経験は大変豊富である。

兄がおこなう八極拳は技と勁道が大きく豪快であり、身法は重厚であり、滑らかに動いている。その功力はその動きの中ではっきりわかる。

その強烈な伝達力と震撼力は充分に馬氏八極拳の特徴である「短中寓長、剛柔相済」の風格が出ており、まさに「通備勁」が追求した勁力の極限を体現している。

文/馬明達

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