英傑 馬英図

馬英図は1,897年に滄州で生まれた。6歳より父から武術を学び始めたが8歳の時に祖父 呉世軻と、兄 馬鳳図の命より羅瞳の張家に武術を学びに出向き、羅瞳八極の宗家、張景星の入室弟子となり八極拳と六合大槍を学んだ。呉家は回族であるが、張家は漢族であり、源を同じくする八極拳であっても民族性の反映の上で各々が研究工夫されることによって独特の 発展を遂げていった。呉家では漢族の八極拳を知るためにあえて馬英図を当時の羅瞳の代 表的人物 張景星に拝師させて武術を学ばせたのである。当時弱年であった馬英図だったが、聡明であり膂力が人並み以上である馬英図に張は期待し、八極拳と六合大槍の全伝を伝 授した。よって馬英図は張玉衛、李書文、韓化臣とともに羅瞳四傑の一人としてあげられている。

兄、馬鳳図が副会長を務めていた「中華武士会」に参加し、その際に八極拳と武器を演武して、最年少の身でありながら卓越した功夫により周囲のど肝を抜かせ、同門の先輩武術家である李書文から激賞された。

1914年 馬英図は兄、馬鳳図に随って東北へ赴き現地の武術家と交流した。それから東北より戻った馬英図はしばらく後に西北軍閥総司令の馮玉祥将軍と知り合い、兄とともに西北軍に迎え入れられる。馬英図は軍人としても一流であり、1924年西北軍が天津に進行した時、当時天津を守っていた東北軍閥総司令、張作霖の部下である李景林将軍(李将軍は武術が好きで、孫禄堂や李書文たちから武術を学んでいる)の十数万の大軍の駐屯地を少数の「大刀隊(敢死隊)」を率いて攻め入り天津を占領した。

若くして馬英図は「馬狠子」と称され、強猛の打撃は兄弟子 李書文と同様試合で多くの人を傷つけ恐れられた。

1928年 馮玉祥将軍の部下である張之江が南京で設立される国立の武術家養成機関である中央国術館の館長に就任することになった時、その活動に参加するため南京へ赴いた。

その中央国術館を設立する際に政府が優秀な武術家を見つけ出し、教師として採用する為に開催した試合である「第一次全国国術考試(考試とは試験の意味)」の散打部門と撃剣部門、長兵器部門(槍)において優勝した。 それにより中央国術館の教師となり、八極拳を正科として指導した。

また、蒋介石の前で河南の大槍の高手である劉丕cと大槍で試合して勝利を収め、蒋介石や多くの武術家たちに中国長槍術の真髄を見せつけた。

中央国術館は多くの武術家が出入りしたが功夫に関しては馬英図の右に出る者はいないと言われ、多くのエピソードを残している。当時中国北方で有名であった「朱氏四傑」の一人朱国禄と撃剣の試合で一撃で重傷を負わせて病院送りにしたり、第三科科長でシュワイジャオ(中国の柔道に似た格闘技)教師の馬曲風とシュワイジャオの試合をして逆に馬曲風を投げ倒したり、また山西省から一人の心意拳家が中央国術館を訪れ試合を申し込み、教師たちが誰一人立ち会って適わなかった時、馬英図が相手になって「大跨歩」の一撃で打ち倒してしまったりと、多くの武勇伝がある。

そして晩年退役し1956年没す。

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