中国短兵と日本の剣術の姿勢を見比べみればお判りだと思うが、中国短兵は片手で用いる事が多いので、半身になった姿勢が多く、歩幅も広いので、身体の起伏や動きの変化が多彩である。逆に日本の剣術は両手で剣を操るので歩幅が狭く、打撃の力点の正確性はあるが、両手で持つためその分変化が乏しい。
だが中国短兵は半身になり片手で用いるので力点の正確性そして威力は日本武道と比べて乏しいと見られがちだが、中国武術では武器は手の延長とし、特に通備門では劈掛拳の基本打法の単劈手や烏龍盤打等で身体の開合と起伏を行いながら軸を保って動ける訓練をしていき、さらに八極拳や翻子拳を練っていくことによってそれを補えるのだ。
武術では拳術だけでなく武器も練習する事により、より武術の事を深く理解する事ができるのだ。武器も拳法と同じように身体の中心から発せられる勁を用いるのは言うまでもない。拳で練った力を武器に伝えるのだ。足から手(武器)まで力が至ってこそ最大の力が生まれるのである。例えば日本の剣術では切っ先三寸というが、切っ先を活かすか、殺したままにしておくかの差は、小指から跳ね返すような力を送れるか送れないかの差である。その小指の力もそうだし、拳術での打撃でもそうだが、武器を持って打ち出す力は必ず丹田から伝わってきたものでなくてはいけない。しかもその力は足裏から来なければならない。その足裏からの力をより活かすには胸と腹(丹田)の凸凹運動である呑吐と螺旋状に身体を捻る運動が必要である。よって強大な力を生み出すには腿に秘められているのだ。武術は敏捷な動きを求められる。動作の敏捷に出来るか出来ないかの差は、結局は「腿」の問題に帰着するのである。身体を支え、安定感があって、柔軟に身体を自由に運べるように出来るのは「腿」である。腿によって体の軸を保ち、これを働かせて初めて自由に運動できるようになるのである。よって十分な腿による運動をさせて、それを連動させ発達させないといけない。しかし今の多くの人は“絶招”と称したりして小技ばかり求め、「腿」を疎かにしている。腿とはいっても、腰胯から繋がっているものではあるが、重心を落とし、腰胯をスムーズに操作させるには、この腿に待たなくてはいけないのは言うまでも無い。だから通備門では初心者の人は必ず通備弾腿、八極小架等といった架式を練る練習を徹底的に行う。
こうして拳術と武器を練りながら最後には軽動や霊動によって動ける段階までもっていくのである。李書文や馬鳳図はこうした高い境地まで達したという。今通備門の武術においてこうした段階を伝承しているのは日本では小林正典老師ぐらいだと言われている。
呼吸についてだが、日本武道では「気合い」というのがあり、中国武術でも爆発力を伴った呼吸法があるが、ただ巷で勘違いされているような口先だけで大声で発生してもまったく意味が無く、却って血圧が上がったりして体力、精神力の妨げになるのである。内から深く丹田に蓄えられた状態から俄然として爆発し発射する。それにより気と身体がピタリと協調し一致してこそ、爆発力を伴った力が到達するのである。そのことを深く理解し、正しい姿勢と動作を注意し、呼吸を計り、精神を定めて、意識を集中し、それをもって動作を行っていけば、自然と「気合い」「爆発を伴った呼吸」が体得できるとされる。よって雑誌等で研究家が言っているような爆発呼吸だけを強調するような言い方はいかに浅はかな知識だけだというのが理解できる。いくら形だけを真似ても意味が無く、習っただけで知識だけを知っても意味が無く、魂を込める事。姿勢と動作、精神が一致してこそ内から沸く意識が表面に出てくるのである。それを中国武術では内勁といった表現をされている。
このように正しい指導の下で鍛錬を積み重ねた動きは自然な動きになり、その動きは強い勁を発揮するのであり、安静した体勢でもある。武術において慎むことは散漫な心である。散漫な心は何の精神の気迫もなく、そんな精神では全身に何の力もない。全身に力を満ちてこそ鍛錬であり、生命ない武芸は体操と同じであり、敵に簡単に打ちのめされてしまう結果になるのだ。正しい視線の置き方(眼法)、身法、手法、腿法、心法等により、全身隙間ない全身に力が満ちた完全な動き、そして集中した精神となるのである。 まずは学んだものを形式を整えるのが最初に行う作業であり、自然とリラックスして動けるようにしていく。それから発勁、歩法、打人法、招法との連関しながら段階を踏んで完成させていく。そして無敗の境地へ達していくように目指すのだ。